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歯の神様

塩地蔵(東京都)

源覚寺の塩地蔵
源覚寺の塩地蔵

 塩地蔵は文京区小石川2-23の常光山源覚寺境内に大小2体あります。頭から膝上まで塩にまみれています。祈願するときには、紙に年齢と姓名を書いて釘で地蔵堂に打ちつけておきます。ご利益があって歯痛が治ったら釘を抜きます。これは大きい方の地蔵。もう1つの小さい方の地蔵には塩を供え、その塩を持ち帰って歯を磨けばよいということです。

 昔は、歯磨き剤の代わりに塩が用いられており、現在でも殺菌や消炎にも効用があると言われています。

松秀寺のむし歯地蔵(東京都)

 松秀寺は東京都港区白金2丁目にあります。嘉元年間に、武蔵の國高井戸の地に仏頂山浄光寺と称して開創されました。

 江戸時代になって紀州家の当主・京将(むねのぶ)が宝暦2年(1752年)に高井戸より白金村に移して松秀寺と改めたと言います。

 この辺りは江戸城に近く、また東海道を行き交う品川宿も隣接の地にあるところから、大名屋敷や武家屋敷が多く、社寺も多かったと伝えられています。このような状況から推測すれば、この地域には相当数の人々が居住していたことがうかがえます。この人々がいったん病に侵された場合、現在のような充実した医療の恩恵を得られなかったので、「神だのみ」「まじない」に頼らざるを得なかったでしょう。このような背景から「地蔵信仰」が生まれたものと考えられます。

 山門を入って左側に数十体の石地蔵が並んでいます。以前は広い境内の各所にこれらの地蔵が点在していました。その中に「むし歯地蔵」があって、歯痛の治癒を祈願する人々が多数あり、祈願成就に対しては楊枝を供えてお礼をしたと言われています。

荻窪白山神社(東京都)

荻窪白山神社
荻窪白山神社

 当神社は旧下荻窪村の鎮守様で、御祭神は伊邪那美尊です。文明年間(1469〜1486年)に、関東菅領・上杉顕定の家臣・中田加賀守が加賀(石川県)の白山比刀iひめ)神社より分神を勧請してこの地にお祀りしたのが始まりということです。

 上杉顕定の落居の後、中田加賀守は野に下り百姓となって名を大学と改めました。常に 敬神の念が厚く、邸内に5社を勧請して崇め祀っていました。これが白山神社の縁起で江戸時代頃まで五社権現と呼ばれていました。

 大学の弟・兵庫が常に歯痛に悩まされていると、ある晩枕もとに神託があり、「社前に生える萩を以て箸を作り、これにて食事をすれば歯痛すなわち癒えん」と・・・。兵庫はお告げ通りに萩の箸を作り食事を摂ると、歯痛が直ちに治ったと言われます。

 この噂が村人に伝え拡がり、遠近から多くの歯痛に悩む者が参拝するようになり、現在に至っていると言われます。

荻窪白山神社の立札
荻窪白山神社の立札

 その後、祈願成就には萩の箸をお礼として納める習わしが、いつの間にか生まれたと伝えられています。

 荻窪(おぎくぼ)はこの頃「はぎくぼ」とも言われ、境内には多くの萩の木が繁殖していましたが、現在はわずかに1株のみとなっています。

 昭和42年に社殿を改築の折、社殿の長押から多数の萩の箸が出てきて氏子の方々や多くの関係者を驚かせたそうです。歯痛の悩みを癒してくれると篤い信仰を得ていたことを立証したのではないでしょうか。(※取材当時)

 現在では「赤ちゃんのお宮参り」に参拝した折には、男児には白い箸を、女児には赤い箸が授与されるということです。

下和田の歯痛止め地蔵尊(東京都)

 東京の西方・立川市錦町にある下和田地蔵堂の堂内にある延命地蔵尊は地元の人々に大変親しまれています。

 堂は約7坪の質素な造りで、4坪ほどの畳敷きの部屋の正面に背丈1m位の石地蔵が2体、花に囲まれるように立っています。毎月4の日には地元のお年寄りが茶菓子を持ち寄って集まり、教文を詠じ供養を続けています。

 万病治癒に霊験あらたかと伝えられる中で、歯痛止めの祈願の折には、大豆を煎って半紙に包み地蔵堂の下に埋め「この豆の芽が出るまで痛くなりませぬように」と願うと治ると言われます。この習慣も除々に薄小しているようです。(※取材当時)

 現在でも線香をあげてお詣りし、その線香の灰を「いぼ」に塗り付けると、いつの間にか取れてしまうと近所の老女が教えてくれました。

 毎年2月1日には「天東念仏」といって、日の出、日の入りの時刻に鐘をたたいて供養する行事が続けられていると言います。

白山神社 歯ブラシ供養(東京都)

 通称「はくさんさま」と呼ばれ、境内には多種の紫陽花が咲き、白山神社紫陽花祭を開催するなど、都心での紫陽花の名所として愛好者の賑わいをみせている文京区の白山神社は、「歯ブラシ供養の神社」としても有名です。

 特にむし歯の痛みにはご利益があると伝えられており、これは「ご本宮一の宮」の修験者の一人が荒行に耐え成し遂げたと伝えられる「歯痛止め」の業によるものと言われ、当時の一般庶民から篤い信仰を集めたそうです。

 明治時代までは歯痛止めの祈願に訪れた人々に房楊枝が授けられていたようですが、医学の発達に伴い、一時期この習わしは中止されていましたが、最近復活したようです。(※取材当時)

 江戸名所図会に次のような記述があります。

 『当社は元和三年の勸誘なりといへり。当社旧白山御殿の地にありて、氷川明神女体宮と共に並びてありしかども、彼地に御殿営作せられし頃、今の地へ遷座なし奉るとなり。【神社畧記】に云ふ。此神旧白山御殿の地に鎮座ありて、其原始尤久し、神木に船繋松とて無比の大樹ありしと云ふ。氷川社は今薬園の西にあり。其條下に詳なり、女体宮も今伝通院の内にある所の弁才天是なり。祭礼は九月ニ十一日なり。釣樟(くろもじ)の歯木と紙にて製する所の弓箭を以て、此地の土産とせり。』

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