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歯の神様

歯神・三王清兵衛(東京都)

歯神・山王清兵衛
歯神・山王清兵衛

 1955年頃、この地を訪れて偶然に歯神「三王清兵衛」に遭遇しました。

 都心より国道4号線(日光街道)を北上、千住大橋の手前を右折、数百mに日枝神社はあります。

 隅田川沿岸に位置し、現在の中央区と江東区に挟まれた河口より約10kmさかのぼった地点です。陸路・日光街道とあわせ水路の便もよかったため、早くから開発された土地でした。

 天正18年頃(1590年)に江戸に入部した徳川家康によって、文禄3年(1594年)に千住大橋が架けられ、千住下宿は江戸の玄関として賑わったと伝えられています。

 初めてこの祠に遭遇した当時の記憶では、四つ辻の一隅に建てられていた古びた小祠の上部に、横幅約1mほどの額が掲げられていました。額には一人の武士が白鉢巻きに白袴をつけ、もろ肌脱ぎの姿であぐらをかいて、右手に逆手に持った大刀で今にも切腹しようとする姿が描かれていました。そしてその左側に次のような意味のことが記されていました。

 「昔、参勤交代のため江戸に向かう、ある大名行列がこの地に差し掛かった折、家来の1人が突然歯痛に襲われ、これ以上、殿様にお仕えすることができず、その不忠を詫びつつこの地で切腹した。歯痛のために自刃する無念と、二度とこのような不幸を繰り返さないため『歯痛に悩む人を助ける』と言い残した。側近者がこれを哀れみ、お堂を建てその霊を弔い、供養した。その後、歯痛に悩む者がここを詣でると歯痛が治ると言われ、近隣はもちろん、遠地からもここに詣でる者が多かった・・・」と。

 日光街道は江戸から日光に通じ、宇都宮と奥州街道で分かれます。日光への例幣使街道として賑い、多くの大名行列が行き来したことが想像されます。

 ところで長い年月を経た現在、祠の左側に建てられている史跡説明板には、次のように記されています。

 「日枝神社は、江戸時代山王社と呼ばれて旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和5年(1316年)に建てられたと伝えられる。

 この社の入口にあたる旧砂尾堤土手北側に歯神・清兵衛を祭った小祠がある。いずれかの藩主・清兵衛がむし歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってそれを祀ったという。

 俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効果があれば『錨を加えた絵馬』を奉納する習わしであった。区内絵馬信仰の代表であり、千住の歯神として有名であった。
荒川区教育委員会」

 歯痛祈願成就と錨をくわえた絵馬との関連性について、いくつかの説があるようですが、主なものとしては、

 ◆その1 鉄製の丈夫な錨でもかみ切れるような丈夫な歯になるようにと願う。
 ◆その2 大きな船をも繋ぎとめるような丈夫な歯になるように願う。
 ◆その3 錨は水中に沈めるものなので、歯痛を静めるように祈願する。
 ◆その4 錨は船を繋ぎとめることから、歯の動きを止める。
 ―などがあります。

鯖稲荷=日比谷神社(東京都)

 新橋の烏森通りから浜松町方面に歩いて1、2分の右側に「鯖稲荷―日比谷神社」があります。

日比谷神社(鯖稲荷神社)   絵馬
日比谷神社(鯖稲荷神社)   絵馬

 創建の年歴は不詳と言われますが、今から400年以前には千代田区日比谷公園の大塚山という所(現在の日比谷公園入口の交番裏手にある心字池=亀の噴水=の池畔)に鎮座していました。

 その頃は直前(日比谷通り)あたりまでが東京湾の入江となっていたそうで、海からは鯖、鰯、秋刀魚などが豊富に漁れたと言われています。

 当時は日比谷稲荷明神・旅泊(さば)稲荷明神と称されて全国から来る商人や旅人に社務所を開放し、時には隅し、手厚いもてなしを施したと言われています。そして食膳には近海で漁れる青い魚類を多く供されたと言われています。

 ある時期にこのあたり一帯に疫病が蔓延した折、平癒祈願に際し「鯖断ち」をして大難から逃れたと言われ、霊験殊に著しいとして里人とともに篤い信仰を得るようになったと言われています。

 そして慶長年間の江戸城日比谷御門の御造営の折に、現在の新橋駅東口前の地に換地となって、社号も「日比谷神社」と改称されました。その時以来、旅泊稲荷は魚の鯖に変わり、「鯖稲荷」と称されるようになりました。現在地には大正末期から昭和初期に再度移転して現在に至っているわけです。

 御祭神は祓戸四柱大神ほかとなっていて、人、厄除、土地、家の不浄、井戸、車、穢を祓い清める修祓の神様と言われ、無病息災の祈願には霊験殊に著しいと言われています。

 昔から、むし歯虫封じに苦しむ人の祈祷には霊験ありと、50年ほど前までは祈祷の際には上下の歯列を記した紙を授け、痛む歯に印をつけてこれを折りたたみ、痛む歯でかむという習わしで、鯖断ちと共に治癒を念じ、癒った後には報謝として鯖を奉納したそうです。

 しかし保健所から「口中に入れることは不衛生」との理由でこれを禁じられ「鯖」も「絵馬」に変わりましたが、今ではこの絵馬も姿を消してしまいました。

むし歯祈念の寺(東京都)

 地下鉄千代田線根津駅又はJR鶯谷駅から言問通りを歩いて12〜3分。谷中墓地に通じる道を入ってすぐの左側に瑞應山・妙雲寺はあります。参道右手に「むしば祈念の寺」と刻んだ自然石が目につきます。昭和初期に大阪在住の信者から寄進されたものです。

むし歯祈念の寺
むし歯祈念の寺

 江戸時代から当寺に安置されている鬼子母神像は、むし歯除けに霊験特に顕著として知られ、大檀越・富山藩前田家をはじめ江戸府内外の人々に篤く信仰されていました。現在でも日本国内はもとより海外在住の日系人からも、むし歯除けの祈祷を依頼する手紙が届けられると言います。

 妙雲寺に安置されている鬼子母神像は、富山藩祖前田利次の母・天徳院が崇敬して、前田家の子授け、無病息災、諸病平癒を祈願した尊像と言われており、奥向きの女中たちが篤い信仰を寄せたと伝えられています。

 天徳院は、二代将軍秀忠の息女で、はじめは「ねね姫」と言いましたが、前田家に嫁いだ後、「珠の方」と呼ばれました。天徳院は元和8年(1622年)に没しましたが、没後に鬼子母神像が前田家の祈祷寺であった妙雲寺に寄進されたと伝えられています。

 鬼子母神は、老鬼神王般闍迦の妻で、1,000人(一般には500人)の子どもを生みましたが、性格が粗く凶悪で、常に他人の子を略奪してきて喰べていました。このため最愛の子どもを奪われて悲嘆にくれる母親が幾千人もいました。

 これを聞いた仏陀は、鬼子母神を教化し衆人の悲しみを悟らせるために、鬼子母神が最も愛していた末の子の嬪伽羅を奪って隠しました。嬪伽羅がいなくなったことを知った鬼子母神は、怒り悲しんで八方を捜し回りましたが行方が知れず、仏陀にすがりました。

 仏陀は鬼子母神に「お前は1,000人もの子どもを持っているが、そのうちのたった1人を失っただけでさえそのように嘆き悲しむのだから、1人か2人しかいない子どもを喰べられてしまった親の悲しみはどれほどのものか。これから以降、決して他人の子どもを捕えて喰べるようなことはしないと誓うなら、お前の子どもの行方を教えてあげよう」と諭しました。

 仏陀の教えに、深く前非を悔いた鬼子母神は、それ以来、子どもの守り神となって仏法に仕えるようになったといいます。

 延宝・天和年中(1673〜1683年)頃、越中国(富山県)から江戸に出て、上野山(上野公園)や浅草寺境内において、居合抜きや独楽まわしを見せながら、歯磨き薬を売ったり歯の治療をしていた四代目・松井源水は、日頃から妙雲寺の鬼子母神を信仰していたため、生涯一度もむし歯にならなかったと言われており、それ以来妙雲寺は「むしば祈念の寺」として知られるようなり、次第に江戸府内をはじめ近隣の人々が参詣に訪れるようになったと言われています。

長仙寺の如意輪観音(東京都)

長仙寺の如意輪観音
長仙寺の如意輪観音

 東京都杉並区高円寺南の日王山阿遮院長仙寺は真言宗豊山派の寺で、不動明王を本尊としています。宝永元年(1704年)、中野宝仙寺住職の真秀がこの地に一庵を建て、日王山阿遮院として開創したと伝えられています。

 この境内に安置されている如意輪観音の石仏は享保9年(1724年)の建立で、観音様が右手で頬を押さえていることから、誰いうこともなく「歯が痛むときお参りすれば代わって受けてくださる」と近在の人々から信仰を篤く親しまれており、現在でも時折お参りに訪れる人が見受けられるそうです。

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