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歯の神様

宗福寺の如意輪観音(東京都)

 「よわい草第一輯」に「四谷宗福寺境内の石垣に如意輪観音の石像あり。歯痛に霊験がある」と記されています。

 現住所は新宿区須賀町10-2で、慶長8年に麹町清水谷に創立され、寛永11年に現在地に移転されました。

 歯痛に霊験があると伝えられている如意輪観音の石像は、寺門入り口すぐ右側の石垣の上にありました。作の年代も不明ですが、現在の姿からは相当古いものと推測できます。

 寺の関係者の話では、「昔から『歯痛』を癒してくれる観音様として祈願に訪れる人の姿もよく見受けましたが、現在はほとんど見られない」ということでした。

汐見地蔵尊(歯神様)(東京都)

汐見地蔵尊の立札
汐見地蔵尊の立札

 江戸時代(1603〜1868年)初期頃、都心東部を流れる隅田川は河口を現・中央区に属し、東京湾に注いでいました。東側沿岸に埋立造成された島、石川島は石川八佐衛門の領地で、江戸幕府下の懲役場(寄せ場)が設けられていました。河岸西部の築地側(旧船松町)は町中を運河が流れ、水路として利用されており、東京湾における潮の干潮を観測したり、水量調整のための水門も設けられていたと言われています。

 永代橋は関東郡伊那忠順が元禄11(1698)年に幕府の命令によって創設したものです。

 この辺りの川岸は、江戸に出入りする千石船の停泊地や、千石船からの荷受けや航海用具、飲用水の提供などの業務地区として栄えた土地でした。また流人を八丈島に運ぶ流人船の港が設けられ、慶長11(1606)年から慶応2(1866)年までに1,822人の流刑者が数えられています。

 文化4(1807)年8月19日、富岡八幡宮の祭礼日に、あまりに多くの人が永代橋を渡ったために橋が崩れ落ち、約2,000人もの死傷者が出る江戸の大事件となったと記録されています。

 また、小伝馬町1丁目には「囚獄」(牢屋)があり、評定所(最高裁相当)・寺社奉行・町奉行・勘定奉行・火付盗賊改から送られてきた者を収容していました。死罪の大半は牢内で執行され、さらに死者の内臓を“薬”として採取して専門業者が処理していたと言われておりました。死罪の延べ人数は10万人を超えたと言われています。

 安政2(1855)年10月2日、江戸を中心に大地震が発生して武家屋敷や町屋の多くが倒壊し、続いて市内各所から火災が起こりました。火災による約2,000人の死者と、町方では1万6,000棟ほどが倒壊し、4,600人あまりの死者が出る大きな被害を被りました。

 続いて安政3年8月には大暴風雨によって多くの建物が損壊し、安政5年にはコレラが流行して武家方で2万2,554人、町方で1万8,680人の病死者が出ました。文久2(1862)年には、今度は麻疹が流行して1万4,210人の病死者が出ただけでなく、コレラの再流行でさらに6,742人が病死したと伝えられています。

 明治時代になって、この辺りから“水中から出たい”と訴える声が聞こえて来るという怪奇現象が起こり、川底を浚ったところ一体の石像とともに多くの人骨と歯牙・歯骨が出てきたと聞きます。人骨は両国の回向院に埋葬し、歯牙・歯骨は石像とともにこの地に葬って供養することになりました。石像は高さ約55cmほどで、高さ約70cmほどの台座の上に立っています。台座の中に歯牙・歯骨が納められているようです。

 汐見地蔵尊はコンクリート製の高さ約95cmほどの立像で大変に珍しい作で、前記石像とともにここに安置されています。

 歯の痛む者がここに詣で、祠前の塩を持ち帰り口中を漱げば痛みは治ったといわれ、お礼には塩や楊枝を供する習わしで、霊験すこぶるあらたかな地蔵尊として信仰を集めています。

しょうづかの婆(神奈川県)

川崎大師
川崎大師

 神奈川県川崎市の川崎大師平間寺境内にあります。しょうづかは、三途の川の訛であろうということです。そして三途の川というのは、十王経に出てくる葬頭河の訛であるとされています。

 この石仏には諸説がありますが、いつの頃からか、歯(むし歯)の悪い人の信仰が篤く祈願することが多かったと伝えられています。

 昭和30年頃まで、よく地方からハガキが届けられ、その宛先は大師河原の野木甚左衛門様というのが多かったと言います。その他に台場の久兵衛様というものもあったと伝えられています。内容は「どこそこの歯の痛みを治してください」というものだったそうです。

常福寺 報謝に紅粉楊枝(神奈川県)

 神奈川県横須賀市にある常福寺は、明応2年(1493年)に草創されたお寺で、浄土宗に属し、放光山延寿院常福寺と号されています。

 文化7年1月浦賀奉行、御預所、支配所、御役知村村、寺社格式書上、附寺社奉行問合書のなかに「寺席之儀は永聖席ニ而、於群中類門無之、諸山別寺格ニ御座候」伝々と記されており、寺格も寺席も高く、開創以来法灯連綿として五百有余年の歴史を重ねて現在に至っている由緒あるお寺です。

 この寺内に「珊女の位牌」と称されているむし歯によく効くという「珊誉女(さんよめ)」の位牌があります。「良樹院殿珊誉昌栄大褌定尼尊霊位 寛永十一年八月八日」と記されている珊女は、備後福山城主の息女です。生前、常に歯痛に悩まされていて、死に直面した折に「この病に罹るもの我に祈らば効験を得ん」と遺言を残しました。それ以来、歯痛を患う者がこの牌に祈願して、効験を得た者は報謝に紅粉楊枝などを供したと言われています。現在でも口伝によって歯痛に悩むものが祈願に訪れますが、報謝の類は見られなくなったそうです。

 この地に取材に訪れた際に、大正時代に発行されたと思われる資料が入手できました。この地方の風俗、風習などを談話調に記したものですが、その中で「歯の治療」の一項がありましたので、ご紹介します。

歯の治療

 大正時代は蓬莱屋の裏に安達という歯医者ができたけど、明治の時分は白山様へお参りに行ったり、梅干を貼ったり、むし歯のところへ焼火箸を突っ込んだりしたんだ。

 子どもの時分は歯がぐらぐらするとね、糸を結わいて高いところから飛び降りて抜いちゃうんですよ。それで下歯の場合は屋根の上に放り上げて、上歯の場合は縁の下へ放り込めと言われましたね。

※注 ここに出てくる白山様とは、横須賀市小矢部にある「大松寺」のことと聞きました。

「白山様」/小矢部の白山様(神奈川県)

 小矢部の白山様は大松寺境内に「鎮守白山大権現」として祀られています。

 最近の信徒により、心の拠り所として後世に伝えていこうと、次のような案内板を建てる準備がされています。

 『このお社は白山様と申し上げる。古来より小矢部の村人達に歯の神様として敬われ、また親しまれて来た神様です。小供が歯が痛くなるとこのお社の前に立たされて、お社の屋根を手でさすり、その手で小供のほほをさすると歯のいたみがなおると言われて来ました。そして歯のいたみがなおると萩の木で箸をつくりお礼にこのお社に納めました。昭和のはじめ頃までお参りがよくありました。  正しくは当山大松寺の鎮守白山妙理大権現と申し上げる。これは宗祖道元禅師の守護神で伝説に依れば永平寺の山奥に於て九頭の龍神となって道元禅師の修業を助けたといわれる。』

 当山大松寺の守護神として、誠に尊い神様であります。

珊誉女について

 常福寺にある「珊誉女」の位牌についての伝説的内容をご紹介しました。この類いの資料は当該地の一部に残されている史誌のみに限られているのが常ですが、今回の「珊誉女」に関しては、東京(善長寺)、福山(定福寺)にも深い関連を持った記録があることが分かりました。大筋については全く疑う余地のないものですが、内容の一部に違いがあります。(資料・原文のまま)

口中おさんの方 むし歯口中一さいのぐわん(原文のまま)

 東武芝土界町五町目善長寺(浄土)境内の小堂の中に、水野日向守勝成の室お珊の方の石碑ありて、絵馬おびたゝしく掛、幟なんど供じたり、何故に斯仰々しく崇め、諸侯の室を祭りし事法に過たり、子細ぞあらんと由縁をたづねしに、寺僧答ていわく、これはむかし水野日向守勝成、元和五巳末年より備後の國福山の域を拝領して、同じく美作守勝重、日向守勝貞、美作守勝慶と同代が間、在城の頃なりしが、勝成の室お珊の方は、生涯口痛の煩ひに悩みて終に相果けり。此婦人帰元の期に誓ひて遺言すらく、われ一生口中の病ひによりて苦しめり、その痛み言外に中々語りがたく忍びがたし、後世口中に悩む人わが墳前に来りて結縁せば、かならず口中の一切の煩ひを除くべしと、呉々も誓ひ終りて死せり、これに依て福山の城下なる定福寺に葬りしが、後果して口痛するもの彼墓前に来りて念ずれば、忽焉として平癒する事更に神の如しと。それは備後の福山なり、しかるに、今水野家の菩提処ならずして、東武の爰に又候や、此墳前を建てし事は、去し明和年間当寺の住僧実誉といひしが、その頃は、いまだ所化にて行脚の砌、備後の國に於て口痛甚だしく諸薬を用ゆるに験なし、旅中といひ別にして苦しみ忍びがたし、これによりて、実誉は土地の巷談を伝え聞より、彼墓前に詣で一心に念ぜしかば、頓に口痛平癒してこころ快然たり、その後、実誉当寺へ入院して情むかしの事を感ぜしまゝ、備後福山定福寺お珊の方の墓処の土を取よせ、当寺に埋めて石塔をたて霊を崇めたり、しかしより、口中の煩ひに悩めるものは、此墳前に結縁し、平癒の後は、絵馬幟などを上る事とはなりぬと住僧が物がたりき。(中略)今日はからずも此処を通行し、此寺へ立寄てお珊の方の墓を見たり。

・山崎美成【海録】巻十一「おさんの方」(文政3年〜天保8年)

常福寺(原文のまま)

 放光山延壽院と号す。浄土宗鎌倉光明寺未開山教誉圓蓮社と号す、明暦四年七月十五日卒、三尊弥陀を安ず、又珊女の位牌と称するあり、良樹院珊誉昌栄禅定尼、寛永十一年八月八日と刻す、相伝ふ珊女は、備後福山城主の息女なり、常に歯痛に悩めり、歿するの時、遺言すらく、此病に罹るもの、我に祈らば効験を得んと、其墓同所常福寺にあり、福山志料定福寺の條に、三女の墓を載せ、水野氏の妾女三と記す、當寺の牌は安永九年因州鳥取良正院住僧見誉、故ありて彼定福寺より移す所なり、歯痛を患る者此牌に祈て験あり、紅粉楊枝の類を賽す。

・新編相模國風土記(原本・天保十二年)完成

 善長寺に生まれ育ち、大正十二年、善長寺十八代の住職を継がれた松濤芳俊師(明治三十四年生)は、お珊地蔵がいつからあったか知らないが、子どもの頃にむし歯が痛むと、天保生まれの父親からお珊地蔵にお願いしてこいと言われ、地蔵さんを拝んだものだと話される。その頃には、浅草辺りからも歯の痛む子をおぶって、拝みに来る人があった。夜遅くなって、泣く子をつれて詣る者もあり、ふしぎに痛みが止まって泣きやんだのを、よく見たものだった。戦災にあうまでは、願掛けする人もあったが、「江戸神仏願懸重宝記」に見える「おさんの方」の楊枝云々ということは、お珊地蔵にはなかったそうである。(下略)

・中島恵子『おさんの方とお幸さま−霊神と霊能者のこと―』『女性と経験』八号(昭和五十八年)

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