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歯の神様

歯痛地蔵 南天の箸の首飾り(大分県)

 九州地方には約20件ほどの歯に関する神社仏閣や地蔵さんが存在しています。

 今回ご紹介する「歯痛地蔵」は、別府から車で30〜40分山間部を走り抜けた大分県宇佐郡安心院町にあり、正式名称は「飯田浮島観音堂」と言いますが、地元の方からは「歯痛地蔵」と親しまれています。

 このあたり一帯は昭和63年から平成元年に至る間、北大バイパス工事に伴って行われた大分県教育文化課の事前発掘調査によって縄文時代の遺跡が発掘されて、一躍クローズアップされた宝庫と言われる地区なのです。埋もれた文化価値を掘り起こして、夢とロマンを町内外にアピールしようと生まれた「安心院縄文会」は、それ以来活発に活動を続けています。この会の当時の事務局長にお会いして、色々とお話を聞くことができ、さらに過去にさかのぼって貴重な資料として同氏の著書「伝説、民話を探る=あじむの里」を戴いたので、その中から今回の「歯痛地蔵」に関する記述を転載させていただきます。

飯田浮島観音堂

 群馬県富岡市在住の飯田氏所蔵の飯田城の古図によれば、飯田五社大明神(元宮)の位置の西側に神宮寺の所在を示す記載がなされている。この神宮寺跡の遺構と見られるのが飯田浮島観音堂である。

 現在の構内は百二十平方メートル程の極めて狭いところであるが、野外には右手に経塔、石造の弘法大師像が安置されており、外にこわれかけた五輪塔、宝塔、六地蔵塔、角塔等の石造塔が雑然と並列散乱している。

 二間四方の堂屋は戦後再建されたものである。中央に文殊観音菩薩像その左側に石造の地蔵像が安置されている。専門家の調査をまたねば正確なことは判じ難いが、美術的に見ても見事な観音像であり、地頭飯田氏の菩提寺としての神宮寺跡にあったものとすれば、天正時代で約四百年前となる。飯田元宮の元禄灯籠二基を奉納した飯田新助の時代まで下っても三百年は経過していることになる。

 現在観音様については、近くに居住する婦人連が観音講を組織して、年二回輪番制にて供養の世話を行っている。また地蔵様は歯痛地蔵とも俗称されており、歯痛にご利益があるようである。歯痛が治った時のお礼参りには、南天の箸を年の数編んだ首飾りが地蔵様のご尊体いっぱいに掛けられているからだ。庶民信仰の伝承が飯田の入口「栗の木首無地蔵」から「イボ神様の水垂不動」そして浮島集落の外れ「歯痛地蔵」へといまも息づいていることを再発見し、胸の高鳴りを覚えた。(原文のまま) 歯痛祈願に対してお礼に南天の箸を首飾りとする習わしは、これまでのところではここが唯一のものと思われます。歯痛と南天との関係は今のところ不詳ですが、南天の葉を煎じたり、黒焼きにしたりして用いることは、民間療法として九州南部の地区に1〜2伝えられています。

松原神社(鹿児島県)

 JR西鹿児島駅前から市電・天文館電停下車、天文館アーケードを歩くこと約5分で松原神社(歯の神んさあ)に辿り着きます。

 松原神社の御祭神は島津家第15代・島津貴久公(大中公)です。松原神社境内にある「歯の神様」は島津貴久公の家臣・平田純貞を祭神としています。

 鹿児島県歯科医師会では毎年”抜去歯”の供養祭とともに「歯の神様」の祭礼を行っています。

 歯の神様に関連して鹿児島県歯科医師会会史(80周年史)には次のように記載されています。

 島津家15代の明主大中公(諱は貴久)の家臣・平田純貞、君主の命を奉じて虚無僧姿となり、九州一円国情偵察の行脚をやった。その当時は織田、豊臣の時代で島津藩の如きも未だ後年の如く統一されたものではなかったが、帰途福山において大中公薨去の報に接した。

 純貞落胆措く能わず人生最大の苦痛を味わいて殉死せんとした。即ち人生において歯痛に勝る苦痛はあるまいとの観念から自ら全歯を抜き放ち、且つ空舟に乗ってこれを海中に投ぜしめた。

 空舟とは本来、木を剔り抜きて船の如くし、殉死者はこれに乗りて蓋を釘付けにし且つ海中に投ぜしめる方法であって、その当時の殉死の一形式として用いたといわれている。これが他の殉死と異なるところは、万一運が良ければ陸地に漂着して救助されることもあったという。

 純貞の舟は2、3の漁家のみだったという海岸(今の南林寺町)に漂着した。即ち検死の結果、平田純貞ということがわかり、これを海岸より程遠からぬ元の南林寺墓地(ちょうど現時の南洲寺より55メートル位西北にあたる)に埋葬された。その時死体を東向に埋葬したところ、不思議に天地晦冥となり、風雨俄に起こったという。蓋し大中公を祀った松原神社がその西にあり、大夫の霊が東向を欲しないためだろうというので早速これを西向に改めたところ、忽ち天地が元のように晴朗になったという。

松原神社
松原神社

 然るに何時の頃からか世人はこれを「歯の神様」と称え、歯痛に霊験あらたなものとして来拝者が後を絶たなかったという。爾来春風秋雨三百余年南林寺墓地も転地改葬され、今では人家稠密の巷と化している。

 大正の年、平田氏の墓も当然由緒墓地に改葬さるべきものであったが、二宮権次郎という人の斡旋に依り、「歯の神様」として現在の如く松原神社境内拝殿の南側に改葬されたものである。尚遺骨も埋葬してあるという(以上は平田純貞の後裔平田正氏および松原神社加世田宮司の談に依るものである。)。

 昔は藩の大奥から下は一般民家に至るまですこぶる信仰厚かったとみえて、寄進石塔には次の文字が窺われる。

 「寄進。御本丸大奥、文政3年庚辰6月吉日」。尚歯の神様の墓石には正面に「廉○浄貞禅伯」「30壬甲」「○○○3日」とあり、向かって左面に「平田治部少純貞。入道○○」とある。

 ○の部分は摩滅して判明しないところである。御本丸大奥よりの寄進になる石柱の日付を見ると文政3年とある。この時代はすでに竹崎潤計氏が口科医として島津藩公に抱えられているが、潤計氏の施術も大奥の女人連中には及ばなかったのであろう。


歯科民俗信仰研究家 吉田 繁

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