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歯の神様

船盡神社 萩の枝で著(徳島県)

 JR徳島駅から徳島本線で5つ目の石井駅で下車、駅前からタクシーに乗り、県道20号線を走ること20分ほどで、船盡神社前に到着しました。神社の前には県道20号線の標識と1日3〜4便運行のバス停「歯の辻」の表示板が立っています、つまり歯の辻はこの近辺の地名になっているのです。

船盡神社
船盡神社

 神社の裏側(西北側)は小高い山、前側(東南側)は低地という地形で、約1キロほど前方には吉野川の支流である鮎喰川が南から東に向かって流れを見せており、対岸にはちらほらと人家が散見できます。石段を上りつめた左側に高さ70〜80センチほどの石台があり、台上には1メートル四方ほどの「著蔵」があります。前面の扉から内部を覗くと、両手の指で輪を作ったほどの太さに束ねた小枝が3つ、4つに置かれていました。

 船盡神社の総代を20年以上も務めている町内の世話役さんに、昔からの言い伝えと記憶をもとに「歯の神様」についてお聞きしました。

 船盡神社は貞観4年(862年)に建立されました。1,000年以上の歴史がありますが、古文書等が残されていないので詳細は不明です。霊験あらたかな「歯の神様」として庶民の篤い信仰を得た年代も明らかではないのですが、歯の痛みに悩む人々が祈願すると、痛みから解放されたと伝えられています。祈願成就には「萩の小枝で自分の年齢と同数の箸を作って奉納する」習わし、ということです。

 歯痛と萩の木との関連は詳らかではありませんが、同じような風習は各地で見られます。「著蔵」に納められている小枝の束は、今もってここに祈願に訪れる人がいるという証拠でしょう。

著蔵
著蔵

 徳島駅に隣接した城山公園にある貝塚は、大正11年(1922年)に世界的人類学者の鳥居龍蔵博士(1870〜1953)によって発見され、縄文式土器や弥生式土器などが数多く見つかりました。昔はこの辺りまでが海岸であり、古代人の集落地であったことが知られています。

 ここから船盡神社までは陸路で約12キロの距離ですが、往時、陸路での行き来は大変困難を極めたと言われて、主に船を用いて神社を見られる付近で下船し、陸路徒歩で神社まで辿り着き参拝したと言われています。降雨後、川の増水などで神社まで辿り着けない時には、対岸の二本木(地名で現在も2本の榎がそびえています)辺りで祈願したということです。

 「著蔵」は、明治の頃、この地にいた大変に信仰の篤い伊藤伊三郎という人が、東京に行き材木商となって大成功して帰郷した際に建造したということです。

 歯の神様として地元では有名ですが、特にこれに因んだ祭礼は行われていません。

歯軋り祈願(香川県)

 香川県讃岐金刄比羅宮の本営にある神桧は、その皮を剥がして痛む歯でかむと歯の痛みが止まるとあります。この社務所のすぐ前側にある木彫の「神馬」は、祈願して歯軋りを治すという信者がお参りすると聞きました。

 馬は飼い葉を食する場合、下顎を左右に交互に移動して咀嚼することから「歯軋り」を治してくれると信じられたものらしいということでした。

安井の歯神さん(愛媛県)

 愛媛県周桑郡小松町安井に現在でも村民に深く慕われている「歯神さん」があります。国道11号線のバス停の安井下車。民家の間を通り抜けて小高い山道を登ること2〜300mで、目指す「歯神さん=新田神社」に着きます。神社といっても積石と小さな祠と石碑とが質素な姿で見受けられるだけのものです。

 石碑正面には「圓通院殿晋聞了照大姉」、側面には「古墓豫州周布郡安井谷 松尾城主松本豊後守後室」と彫られ、反面には「享保13戊申8月 南無観世音菩薩」の文字が見られます。

 享保年間とは1700年代で、当時、この地に松本城があり、城主の松本豊後守は戦に敗れて落城し、自害しました。後室は生前、口歯の病に苦しみ悩まされたので、臨終に際して「世の中の口や歯に苦しむ人々を救うこと」を誓願して逝去したと伝えられています。

 旧暦11月1日には毎年祭事を行い、餅や菓子を配って賑やかに村民は楽しい1日を過ごすと言われています。

 村の学童が村おこしの一環として「イロハかるた」を作り、村中の所々に立札を立てています。はの部は写真のとおりの札が立てられていました。

来迎寺 奉謝に木刀(愛媛県)

来迎寺
来迎寺

 松山城の北方にある商大グランドに隣接した来迎寺(松山市御幸町1丁目)は、伊予の豪族河野氏が祈願所として道後に創建したと言われます。天文12年(1543年)に浄土宗に改宗してからも、今日まで長い歴史を持つ古寺です。

 松山城を築いた加藤嘉明の重臣、足立重信の墓が境内にあることから考えても、高い寺格を持っていると言われています。松山城築城と合わせ、市内を流れる石手側の改修などは、松山の地の繁栄の基礎をつくった偉大な事蹟と言われています。

 これらの大工事に心魂を打ちこんだ責任者として重信の疲労困憊は、並々ならぬものであったと言われています。後に健康を害した重信は、ことに歯痛を患い苦しんだと言われ、寛永2年(1625年)に死去しました。

 生前に主君・嘉明は、自ら彼の病床を見舞って手を固く握って、「この期に臨んで何か欲することはないか、何なりとも・・・」と尋ね、重信は涙を流して「願わくば、私の亡骸をお城の見えるところに・・・」と謝しつつ答えたと言います。

 嘉明は、「重信は死んでなお、私を護ってくれるか」と嘆じたと言います。

 功臣・重信のために、遺言にふさわしい墓地を自ら求めた嘉明は、城北山越の来迎寺の丘を見立てて、手厚く葬ったこの地は、松山城の裏正面にあたり、石手川の望見せられる景勝の地でした。

 重信の死が歯痛によることが世間に知られると、いつとはなしに重信は歯痛止めの神に祀り上げられ、墓前に歯痛止めの祈願をする人が後を絶たず、近年に及んでいると言われます。

 霊験あらたかで、必ず平癒すると喧伝されて、近郷はもとより、はるばる九州方面からも願掛けに訪れる者もあったとか。

 祈願して利益を受けた時には、木刀を納める習慣で、それは重信が武将であったからだとも言われています。

 木刀は墓前にうずたかく積み上げられ、近隣の悪童たちの戦遊びに使われて、辺り一帯に四散したので、寺では清掃を兼ねてこれを薪に使用したと伝えられています。

来迎寺
足立重信墓所

 五輪塔の前方、左右に建てられている自然石の燈籠。向って右のものには、正面に「功や三百年の水も春 鳴雪」、左側に「為大龍院殿三百年忌記念建立」と刻まれています。

 左のものには、正面に「宝川伊予川の秋の出水哉霽月」、裏面に「大正拾四年四月以重信川石造之、足立彰功会、三内村、石工宮内安吉」とあります。

 大正14年(1925年)、300年忌に重信の功業を讃えた鳴雪、霽の句を刻して建てられたものです。

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