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歯の神様

歯神社 巨石で歯止め(大阪府)

 JR大阪駅より東方の徒歩3、4分の阪急梅田駅の高架下に、真っ赤に塗られた鳥居に守られた祠が見えます。歯痛によく効く神様をお祀りする「歯神社」です。

歯神社
歯神社

 40年ほど前に見た祠の様子とは大きく変わっていました。平成元年4月下旬に不審火によって社殿が焼失してしまい、翌年、地元商店街や有志の方々の寄進によって改修工事が行われて新しい姿になりました。

 社前に建っている“歯神社由緒”によりますと、

 「当社は綱敷天神社末社であり、もとは農耕神として祀られ、淀川の決壊をこの附近で歯止めされたことから「歯神社」として崇拝され、近世に至っては歯の神と呼ばれ、歯痛によく効く神様として厚い信仰がある。」

 神社の関係者の話によれば、「歯神社」は江戸時代中期から続く歴史ある神社で、もともと農耕の神様であったと言われ、淀川が氾濫した折、ご神体の巨石が歯止めして農民たちを守ったことに由来するということです。歯止めしたことから「歯の痛みを止める」という歯の神様信仰が生まれたとも言われています。ご神体と呼ばれる巨石は社殿の下に鎮座しており、前述の改修工事時に初めてご神体の巨石を見た折、その形は確かに歯の形をしていた、とのことです。

 神前の“なで石”を2〜3度なでた手で患部に触れると歯痛が治ると言われています。

 以前ほど盛大ではありませんが、毎年6月4日の例祭には、歯ブラシを配り盛り上がりを見せているそうです。

歯定神社(奈良県)

 奈良県天理市中山町にある大和稚宮神社は、一説には大國魂神の御母、伊恕媛命をお祀りし、4月1日の例祭「ちゃんちゃん祭り」には延々数百メートルの美しい列が御母神のもとに渡御するのだと言います。ここを御旅所として供奉者の休憩所にあてたと言われています。

 この本社と並行して境内社の「歯定神社」があります。「歯の神」で社前に石燈籠が一対あって「歯定大権現 元治初申子冬造 当社若連中」とあります。前庭にある大小の自然石は、旧地「歯定堂」にあったものを、ここに遷座したときに移したご神体であると言われています。1月15日の小正月に祭典が執り行われ、付近の人々は早朝に小豆粥をビワの葉に盛って社頭に供える習わしということです。

 他説によりますと、歯定神社は以前「葉状神社」と言われ、農薬の神様であったと言われています。特に葉物野菜の生産の折に、葉の状態を見て出来、不出来の判断をしたところから、種蒔の折により良き多くの作物が収穫できることを祈願したといわれています。

 「定」の意味は、さだめる、きめる 他(現代漢語例解辞典)とあります。

 「歯定」は歯のぐらつきを止めるということになるのではないでしょうか。

 昔はむし歯よりも歯槽膿漏症による歯のぐらつきや口臭に悩まされたと推定されています。このような悩みから解放されるように「葉状」を「歯定」として、信仰篤くして今日に至っていると言われています。

白井神社(鯰神社)(兵庫県)

歯神社
白井神社(鯰神社)

 いつの頃かに古文書のほか一切が紛失したために白井神社の創立年代は不詳とされていますが、諸事を総合して推定すれば聖武天皇の御宇、天平時代と思われます。

 御祭神は天之手力男命とされ、天照大神岩戸隠れの神話で有名な岩戸開けの武勇の神様です。

 享保年間発行の『摂津誌』に「式外、白井天王祠穴太村に在り、隣村又各々祠を建てて之を祀る」とあります。これによって当時既に近隣に聞こえ高く、社頭は常に賑ったと伝えられています。

 いつの頃からか「歯神」と称され、寛政10年(1799)発行の『摂津名称図絵』には「白井天王祠穴太村に在り世俗歯神と称し、歯の患を祈願すれば忽に平癒すとぞ」とありますので、この頃すでに穴太村の白井天王は歯神として有名であり、多くの人々により篤い信仰を得たと伝えられています。

白井神社(鯰神社)
白井神社(鯰神社)

 神社の関係者によりますと、当社の御例祭当日には近畿地方一帯より講旗を先頭に多数の講員の団参が行われ、大いに賑ったと言われています。平素においても参詣者が絶えることなく、このために参道側には茶店や絵馬売店が設けられたとも伝えられています。

 医学の発展と健康保険制度によって歯患祈願に詣でる人は衰退しましたが、今でも時折祈願に訪れる人がいるそうです。社からは「歯患守護」の守札と「御璽」(かみしめ)が授けられています。「御璽」は和紙で折られ、内側には「蚖蛇及蝮蝎」の文字が見られます。

 歯患平癒の祈願者は御礼詣りに「鯰の絵馬」を奉納する習慣があり、現在、社殿内には天保時代のものが保存されてその名残を止めております。

 歯痛と鯰との関係について、次のようなお話を聞くことができました。

 昔、白井神社は広大な敷地を有していて、広い境内には大きな池があって多くの鯰と亀が生息していたそうです。

 ある時、歯痛に苦しんだ者が藁をも掴む思いで鯰の皮膚液を頬に塗ったところ歯痛が止まったと住民の間に広まり、それ以来、鯰大明神と崇められ、鯰を食することを断ち、祈願成就に鯰を池に放したと言われています。

 また亀の生息に対しては、亀には歯がないことから、歯痛にならないということで信仰の対象となったとも言われています。

 しかし時代を経て地区整備などによって境内は狭められ、池も暗渠となったために鯰は絵馬に変わりましたが、今ではこの絵馬も見られなくなりました。現在、前述の社中に保存されています「絵馬」は幅1mほどの大きなものです。

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