2)フッ化物と生物の進化
(1)大気中の酸素濃度の変遷
図1 植物プランクトンと空気中酸素濃度の変遷(J.M.Shop) |
リチャードフォーティ:生命40億年全史、草思社、東京、2003年 |
図1は、J.M.Shopによる、先カンブリア時代から現在に至るこの6億年にわたる大気中の酸素濃度の変遷を、海の植物プランクトンおよび陸上植物の繁茂状態の変遷に併せて表わしたものです。この表は、この6億年というのが現在のすべての多細胞生物にとって海の中での重要な進化の時期にあたっていることを考えあわせると、きわめて興味深いものです。
現在、大気中の酸素濃度は、約21%ですが、私達は昔もずっと現在と同じ酸素濃度だったと思っています。大気中の酸素のような私達の命にかかわる重要な元素が変化するはずがないと考えるからです。しかし、昔は、というより大昔の地球の生命誕生の初期には地球大気にはほとんど酸素は存在しませんでした。その後、主として海中の植物性生物の光合成によって酸素が放出され、これが蓄積され、やがて大気中に酸素濃度が徐々に増加してきたのです。図中の酸素濃度は、右端の縦軸にP.A.Lと表示されていますが、それが現在の酸素濃度約21%であり、それを基準=1とした対数目盛りで示してあります。
この図から分かることは大気中の酸素濃度はこれまで大きな変遷を経てきているということです。およそ6億年前のカンブリア紀(最近では5億4000万年前と訂正)にはじまる古生代の前半、デボン紀までは酸素濃度は現在よりかなり高い時期が多かったようです。しかし、酸素濃度は変遷が激しく、低いときは現在のおよそ10分の1あるいはそれ以下となり、高いときは現在の2倍程度という濃度でした。
また、この図から、この酸素濃度の変遷が海の植物性プランクトン(図中のPhytoplankton) の消長と見事に一致していることが分かります。古生代最後の二畳紀に最も低い酸素濃度を示していますが、植物性プランクトンはその直前のペンシルバニア紀に最低値を示しています。こうした変遷に呼応して、およそ3億年前である、このペンシルバニア紀から2億5,000万年前の古生代のペルム紀末にかけて、海洋生物の実に90%の種が姿を消すという生命史上最大の大量絶滅があったことが知られています。また、中生代最後の白亜紀と新生代の第三紀との境界の6,550万年前にも深い谷がありますが、これは直径10kmという巨大な微惑星が現在のメキシコのユカタン半島に落下して、恐竜をはじめ全地球上の60%以上の生物種が絶滅した時代に一致するのです。
こうした現象は幾度となく繰り返されて起こってきたのですが、こうしたカタストロフィーにも関わらず、われわれの祖先の生物は生き延び、地球環境は、今日の人類までの進化を見事に支えてきたのです。そして、今日、われわれ人類をはじめ、およそ肉眼で見ることのできる現在の地上の生物にとって、現在の酸素濃度である21%が生存に最も良い濃度であることは疑う余地がないのです。しかも、個性がない。私達人類はもちろん、犬や猫や家畜の哺乳類ばかりか、昆虫や台所に徘徊するゴキブリも含めて、こうしたすべての生物がこの酸素濃度が丁度よいのです。いったい、どうしてでしょうか。
もし、現在の空気中の酸素濃度21%が、ある種の生物にとって丁度良い濃度でなかったとすると、その生物は早晩、進化の過程で適応して21%の酸素濃度が丁度良い状態になるか、あるいは進化の道筋から逸脱し絶滅するかのどちらかであることは明白だからです。そして、その時代、時代の酸素濃度に適応した生物のみがその時代の生存と種族の保存を成し遂げてきたからに相違ないのです。進化の競争では、ほんの少しでも不利なものは絶滅を免れえないといいます。なにしろ時間は無限にあるのですから。
現在の地上生物のすべてが現在の酸素濃度に適応していることは、これを地質時代的な巨大スケールでみると、酸素濃度の変遷だけ見ても、生物の進化は完全に自然の条件によって規定されていることがわかります。このことは、酸素のような生物の生存にとって、きわめて大きな影響を与える元素であれば、当然のことと考えられるのです。
(2) 海水のフッ化物濃度は6億年変化していない。
海水中のフッ化物濃度は1.3 ppm程度ですが、この海水のフッ化物は生物にとって重要な意味があるのです。しかも、海水のフッ化物濃度はこの6億年もの間、変化なく推移してきたことがわかっていますが、この6億年というのが現在のすべての生物、とくに多細胞生物にとって海の中での重要な進化の時期にあたっているからです。
6億年前の先カンブリア時代にはカイメンやクシクラゲ、イソギンチャクの仲間のような生物がわずかにいるだけで、その他の多細胞生物はいませんでした。その後、5億4000万年前に始まる古生代カンブリア紀に入ると「進化のビッグバン」とか「カンブリア爆発」といわれる、文字通り爆発的な進化の時期を経て、多様な多細胞生物の動物が生れ、驚くべきことにこの時代の海の中で、現存している38門すべての動物門が揃ったということです。その後、大気中の酸素濃度の増加とともにオゾン層ができて生物にとって大変危険であった紫外線が少なくなり、やがて、地表に這い上がったり、そらに舞い上がったりする生物がでてくるのです。
しかし大事なことは、生物は地球の海の中で生を受けて38億年といわれますが、単細胞生物として32億年ほど海のなかでの進化を経て、基本的にはその後の6億年の間、とくにその前半に海の中で、現在生息するすべての動物門が多細胞生物として進化を遂げたということです。最近、カナダで4億900万年前の初期の鮫、クラドセラケの化石が発見されていますが、われわれの属する重要な脊索動物門・脊椎動物亜門も、こうした魚として現れ、その子孫が両生類から爬虫類へと進化し、われわれ人類が属する哺乳類もそのころ地上に這い上がった魚や両生類の子孫として現れるのです。
こうした生物進化の海の環境は、6億年もの長い間、1.3ppmの安定したフッ化物濃度を保ってきたのですが、酸素やフッ素のようなきわめて活性度の高い元素が生物の進化に無関係であるはずはないのです。それどころか、酸素の場合と同様に、現在のすべての海棲生物にとって等しく1.3ppmのフッ化物濃度が最も好ましい環境であると考えることができるではありませんか。
(3) 硬い殻をもつ生物の出現
さて、5億4000万年前のカンブリア紀初期になると、こうした海の中でできた世界各地の石灰岩層から古生物学者がいう「有殻微小化石」(微小硬骨格化石)と称する微小ではあるが硬い管や種々の形の殻や骨片が見出されるようになります。とくに南オーストラリアで産出される「有殻微小化石」は驚くほどの多様性を示すことで有名です。つまり動物は、早くもカンブリア紀初期には骨格を形成するようになったのです。
その後、カンディアン・ロッキーにある古生代カンブリア紀中期のバージェス頁岩から産出されるバージェス動物群の三葉虫やマルレラ、それに体長50cmに及ぶ当時の最大最強の捕食動物である、あの奇怪なアノマロカリスなどは、ロブスターに似た節足動物に近縁な種として立派な外骨格をもつに至るのです。
この5億4000万年以降、硬い殻や骨格が化石記録として保存されることになるのですが、単細胞から多細胞になり、体が大きくなるには力学的にかなう支持構造として骨格が必要になったのです。しかも、この時期には、これらの生物の殻や骨格は、既に今日の生物の骨格に利用されている構成材である、炭酸カルシウムと燐酸カルシウムでした。
炭酸カルシウムは現在の動物で言えば二枚貝類やサンゴがそうであり、あこや貝がつくる真珠は炭酸カルシウムの結晶でできています。燐酸カルシウムは哺乳類の歯や骨格がそうであり、われわれ人類の歯や骨は燐酸カルシウムで作られています。進化の頂点に立つ人類は、すべての面で最高の生物であると自負しているのですが、人類の歯や骨をつくる遺伝子の基本的なプログラムは数億年前のカンブリア紀の小さな小さな生物がもう既に開発していたのです。それは海の中に豊富にあったカルシウムとリン、それに積極的にフッ素を使って骨格を作るプログラムだったのです。生物の歯や骨を作っている燐酸カルシウムの結晶はアパタイトといいますが、なにしろ彼らが作ったアパタイト結晶は、フッ素を構成成分とするフルオロアパタイト(Fluoroapatite : Ca10 (PO4)6 F2)だったわけです。
その後、4億900万年前になると、われわれの属する重要な脊索動物門・脊椎動物亜門も、魚類として現れるのですが、これでわれわれの直系の脊椎動物亜門のほぼ完成です。これらの脊椎動物では歯や骨の構成鉱物には燐酸カルシウムが選択され、その後、現在の人類の歯や骨に至まで続くことになるのです。
こうした海の魚や甲殻類の硬い骨や殻の形成には、海水のカルシウム、リン、マグネシウムなどのミネラル成分が主役になることはよく知られていますが、海水のフッ化物イオンが海棲生物の硬組識の石灰化に貢献してきたことは重要な知見です。またその後、陸上に上陸した動物群にとっても、既に海棲時代に獲得した骨格形成のプログラムは基本的には変わっていないわけで、フッ化物はその後の動物群の骨や歯の石灰化にも欠かせない重要な物質として存在し続けているのです。