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明治時代の歯科医学史

歯科医師法御署名原本

 明治7年(1874年)に「医制」を布告した明治新政府は、翌明治8年(1875年)から、「25歳以下で新規に医術開業を請う者」に対して試業試験を行い、近代的な衛生行政の確立を目指しました。この「試験法の試験」「旧試験」とも言われる試験の実施に当たっては、「およそ10年のうち」という暫定期間を設けましたが、歯科医術開業免許第一号となった小幡英之助は、その年に合格して10月2日付で内務省から免状を授与されました(「雑学いろいろ」内「歯科医学の進歩と歴史」参照)。明治16年(1883年)末までに延べ3330人、そのうち歯科専門で29名、口中科専門で2名が旧試験に及第して内務省免状を交付されています(「雑学いろいろ」内「明治16年の医師番付」参照)。また、明治15年(1882年)1月に施行された旧刑法では「健康を害する罪」中に「第256条 私(ひそかに)医業を為す罪」を設け、無免許医業に対する罰則を定めました。

 そして政府は、伝染病予防や疾病・死亡統計などの衛生行政を推進するため、その担い手となる医師の資格を定めるべく、明治16年に「医師規則」の制定を図りました。しかし、「医師資格」を法律で規定することの是非を巡って、当時の元老院で白熱した討論があり、条文等を改定した後、「医師免許規則」を布告(公布)、翌明治17年(1884年)1月1日に施行されました。同時に、「医術開業試験規則」を定めて、それまで暫定的に認めていた「眼科」や「産科」などの各専門科を一元化し、前期と後期の試験を実施することになりました。しかし、「歯科の儀は普通外科術とはやや異なる所もこれあり」との見地から、試験規則の条文中に、歯科試験科目を別に付け加えました。

 明治17年からは、この「医術開業試験」合格者と、東京大学医学部並びに仙台・千葉などの甲種医学校(特許医学校)卒業生に、「医術開業免状」が交付されました。また、それ以前の内務省免状や各府県の仮免状所持者には、旧免状を返納して新免状と交換するよう指示しました。

 新しい開業免状には、上部に菊の花の紋章が入り、この時から「医籍」登録が始まりました。当初は、何種類かの医籍が編製され、歯科の医籍には、明治17年3月実施の歯科医術開業試験合格者、青山千代次が同年10月30日付で第一号に登録されました。図1は、『法規分類大全』に掲載されている免状の各種様式を基に作製したものですが、菊花紋章を上部にあしらった免状の基本的な様式は、130年近く経った現在も変わっていません。明治39年(1906年)施行の歯科医師法により、表題は「歯科医師免許証」、「医籍に登録」は「歯科医籍に登録」に変更されましたが、歯科医籍登録番号は明治17年以来、現在まで、通し番号になっています。平成22年(2010年)4月には、歯科医籍登録番号は16万4千号を超えました。

 なお、昭和5年(1930年)7月には、日本歯科医師会が1万5408号までの登録者を収載した『日本歯科医籍録』を刊行しています(図2)。




 「医師免許規則」「歯科医術開業試験規則」については、その後も漢方医の存続問題等に関連して、度々改正案が国会に提出されています。

 明治30年代になり、医師の資格や業務などについて法的な根拠を樹立するため、『医師法案』に並行して『歯科医師法案』が明治39年の第22回帝国議会に提出されました。両法案はまず、衆議院で審議されて可決し、次いで貴族院でも同年3月26日に可決・確定しました。

 徳川宗家を継いだ公爵の徳川家達(とくがわいえさと)貴族院議長は、「歯科医師法案/右衆議院提出案本院において可決せり、依って御執奏あい成りたく、議院法第31条に依りこの段申進候なり」「貴族院は両院の議を経たる歯科医師法案の裁可を奏請す」との文書を同日付で総理大臣宛に送達しました。

 これを受けて、法制局長官は4月17日付で「別紙両院の議決を経たる歯科医師法案を審査するに右は貴族院議長上奏の通り裁可の奏請せられ然る可きと認む」と書面に記し、西園寺公望(さいおんじきんもち)総理大臣は公布の裁可(許可)を明治天皇に仰ぎ、明治天皇は法律第48号で歯科医師法の公布を裁可しました(図3)。



 ところで、このような一連の文書は、国立公文書館で保存されており、法律や勅令の公布に当たっては、天皇が自署し、「天皇御璽(ぎょじ)」を押印する(親署の後、御璽をツ〈けん〉する)ことを、明治19年(1886年)制定の勅令「公文式(こうぶんしき)」で規定しています。書面上の「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」は、形式的な事柄ではなく、天皇の裁可権を法的にも実体化するものとされています。因みに、この印章は金印(黄金製)です。印面は一辺3寸(約9cm)の正方形で、重さは約3.5kgもあるそうです。

 医師法全14条、そして歯科医師法全13条の条文は、「朕帝国議会の協賛を経たる歯科医師法を裁可し、ここに之を公布せしむ」という文面とともに、明治39年5月2日の『官報』第6849号に掲載されました(図4)。この法律により、医療職としての歯科医師の資格と名称が初めて確立しました。「公文式」第10条で「およそ法律命令は官報を以て布告し…」と定めていることから、官報に掲載された5月2日が歯科医師法の公布日となりました。この明治39年5月2日公布、同年10月1日施行の医師法と歯科医師法は、昭和17年の国民医療法制定により廃止されましたが、昭和23年には現行の医師法と歯科医師法が公布・施行されています。

 なお、日本歯科医師会は昭和32年(1957年)、歯科医師法の公布日を「歯科医師記念日」に制定し、同年5月2日には、東京・文京区の椿山荘で第1回記念式典を執り行いました(日本歯科医師会ホームページ「日本歯科医師会について」内「歯科医師記念日」参照)。

文献
1)日本歯科医師会:歯科医事衛生史前巻.日本歯科医師会.1940年.
2)能美光房、宮武光吉編著:歯科四法コンメンタール〈歯科六法必携・解説編〉.日本歯科評論社.1996年.

日本歯科大学新潟生命歯学部「医の博物館」 樋口輝雄

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