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明治時代の歯科医学史

『明治過去帳』の歯科医師達

 大阪で医師をしていた大植四郎は昭和10年(1935年)、『国民過去帳』という本を出版しました。慶応4年(1868年、旧暦9月に明治と改元)1月3日の鳥羽伏見での戦死者から、明治45年に崩御した明治天皇までの2万1306名を逝去日順に収録した1437ページの追悼録で、昭和46年(1971年)に『明治過去帳−物故人名辞典−』の書名で復刻されました。
 明治29年生まれの大植は20歳で上京し、東京慈恵医学専門学校(現在の東京慈恵会医科大学)に入学。医学の勉強よりも図書館で明治時代の新聞、特に訃報欄を読み耽り、「在学7年、落第前後3回、その間青山、谷中、雑司ヶ谷等の共同墓地、各地の寺院、陸海軍墓地等を渉猟」して、逝去日や墓碑銘などを書き写したそうです。その後、大阪の岸和田で開業の傍ら、本書を独力でまとめ上げ、39歳の時に自費出版しました。
 本書には、新撰組の浪士についての記載があります。近藤勇は「新撰組頭取、…明治元年4月3日、下総流山あたりにて官軍のために捕らわれ、25日に板橋において斬首の刑に処せられる。年35、梟首せしむ」、土方歳三は「新撰隊士、武蔵三多摩壮士の雄にして諱は義豊、天保6年生まれ、明治2年5月11日五稜郭寒川の役、銃丸臍下をうがちて倒る。年35」と載っています。
 また、普通の人名辞典には掲載されていない人達も載っており、「稀代の妖婦」高橋お伝は明治12年(1879年)1月30日に、山本長五郎(清水次郎長)は同26年(1893年)6月12日に没したのが分かります。

 この『明治過去帳』には歯科医師が3人載っています。
 1人は、明治42年(1909年)4月に没した小幡英之助(図1)。自分が死んだら、友人知人を集め広間を借りて告別の式を行い、墓標は立てず遺灰は東京湾に撒くよう遺言していたのですが、青山霊園に埋葬され、2年後の明治44年(1911年)には、門弟達が墓所に記念碑を建立しました。『明治過去帳』では陸軍大学で戦史を教授していた横井忠直による碑文を引用しています。また、洋方歯科医術の開祖・小幡英之助の告別式は原胤昭(はらたねあき)の司式によりキリスト教式で行われ、後の国民的作曲家・山田耕筰が賛美歌を歌ったそうです。

 2人目は、明治42年9月に亡くなった渡邊良斎(図2)で、逸話には事欠きません。江戸時代には僧位の一つである「法眼」の位を京都・仁和寺から許され、また、義歯(入れ歯)の名人と謳われました。明治になって某宮家から陪席を命じられ「正装のフロックコート着用」と言われたため、帯に使う絹織物の緞子(どんす)でフロックコートを仕立てたというエピソードが伝わっています。


 日付は前後しますが、3人目は、明治41年(1908年)4月30日、台湾沖に碇泊中の軍艦松島が爆発事故で沈没した時(図3)、運命を共にした鈴藤文一郎(すずふじぶんいちろう)です。父親の鈴藤勇次郎は長崎の海軍伝習所で洋式訓練を受け、万延元年(1860年)の遣米使節には運用方(操船係の幕府士官)として咸臨丸に乗り組みました。太平洋の荒波と烈風に翻弄される姿を描いた有名な「咸臨丸難航図」は勇次郎の筆によるもので、原画は使節の正使だった木村摂津守喜毅に贈られました。木村家が所蔵していた複製画は現在、横浜開港資料館が保管しています。明治元年の戊辰戦争の際、勇次郎は榎本武揚らと函館に向かうはずでしたが、病気のために願いは叶わず自刃しました。残された息子の文一郎は、明治新政府の海軍軍医・佐川晃の養子となり、歯科専門の内務省旧試験を東京府で受験しました。東京都公文書館には「佐川文一郎」の名で出願した時の願書や履歴書、試験成績が保存されており、「5問出題、50点満点のところ、28点で及第。明治16年9月15日付で内務省免状授与」との記録が残っています。小幡英之助の門弟・桐村克己に学んだので、小幡の孫弟子にあたり、後に「鈴藤」に復姓してからは、多くの歯科医師を育てました。また、海軍の嘱託歯科医となって、後進のために歯科軍医任官への道を開きました。

 余談ですが、明治戊辰戦争の時、榎本武揚らの旧幕府海軍と合流しようとした咸臨丸は清水港で新政府軍の攻撃を受け、多くの戦死者を出しました。湾内に漂流する旧幕府兵の遺体を収容したのが山本長五郎だったそうです。文倉平次郎の『幕末軍艦咸臨丸』(図4)には、このような話が集められています。万延元年の遣米使節を含め、乗船した96人一人ひとりの事蹟と消息、当時の克明な航海日誌などを収載した大著で、鈴藤勇次郎の履歴は同書で初めて明らかになったようです。勇次郎の事蹟欄には、「…嗣子文次郎(文一郎)は京橋区三十軒堀に歯科医を営んでおったが、のち練習艦に乗組み斯道に従事して数年前に死去した。なおこの門より東京歯科医学会々長故榎本積一を出している」と記されています。文倉は、埋もれた咸臨丸船員の墓を明治31年にサンフランシスコで発見したことを契機に、40年近くかけて800ページに及ぶこの大著をまとめたそうですが、平成22年(2010年)に出版された植松三十里の『咸臨丸、サンフランシスコにて』(図4左)は、今なお異国に眠る船員達と、「咸臨丸のかたりべ」文倉の物語で、表紙は鈴藤勇次郎の絵をモチーフにしています。



※原胤昭は幕末に江戸町方与力の原家を継ぎ、維新後はキリスト教社会事業家として活動。松井今朝子の小説『銀座開化おもかげ草子』シリーズでは準主役級で20代半ばの青年として登場しています。

文献
1)日本歯科医師会:歯科医事衛生史前巻.日本歯科医師会.1940年.
2)大植四郎:明治過去帳.東京美術.1971年新訂版(原著:1935年私家版).
3)文倉平次郎:幕末軍艦咸臨丸.名著刊行会.1979年復刻版(原著:1938年巌松堂).
4) 植松三十里:咸臨丸、サンフランシスコにて.角川書店(角川文庫16227).2010年.

日本歯科大学新潟生命歯学部「医の博物館」 樋口輝雄

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