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明治時代の歯科医学史

東京日日新聞の歯科開業広告に見る明治時代の歯科医史

 日本には、幕末の開国とともに来日した米国人歯科医師達によって、近代歯科医学・歯科医療が伝えられました。横浜の外国人居留地で直接学んだ人や、江戸時代に漢方の「口歯科」「口中科」を名乗った人達が、競って新しい知識の習得に励みました。また、渡米して当時世界最高水準だった米国の歯科医学を学んだ人々もいます。彼らは、出身や修学履歴から「三系統」と言われ、歴史書では「外人系」「伝統系」「留学系」とも呼ばれています。
 東京日日新聞(現在の毎日新聞)に掲載された開業広告は、米国人歯科医師エリオットに学んだ「外人系」の小幡英之助(図1)、福岡黒田藩の口中医を代々務めた「伝統系」の伊澤道盛(図2)、明治5年(1872年)に「商用」で自費渡米し、サンフランシスコで歯科を学んだ「留学系」の高山紀斎(図3)が出稿した広告で、図1〜3は原本を基に複製したものです(右は現代かな遣いに直したもの)。

 小幡英之助は明治8年10月2日付、伊澤道盛は明治13年(1880年)4月21日付で「歯科医術開業免許候事」という内務省免状を授与されました。明治23年に高山歯科医学院(東京歯科大学の前身、日本で3番目の歯科医学教育機関と言われています)を創立した高山紀斎は、明治11年に帰国して同年秋頃に内務省の試験を受け、「内外科医術開業免許候事」という免状を授与されています。「内外科」とは一般医科のことで、「米国で歯科を学んだ人間になぜ?」という疑問が湧きます。
 外国での医学修業証書によって内務省免状が授与されるようになるのは、明治12年(1879年)8月の「医師試験規則」からで、それ以前の留学者には、形式的にせよ試験を行ってから免状を授与したようです。
 明治11年頃から全国の各府県庁では、従来から医業を行っていた者に仮免状を交付することになりました。漢方(日本での伝統医学)や洋法(西洋医学)を問わず、原則としては明治7年(1874年)の医制に定められた「内外科」「内科」「外科」「眼科」「産科」「整骨科」「口中科」の医師に仮免状が下付されました。しかし、東京府では「従来開業の口中科」は認めませんでした。
 伊澤道盛の場合、明治11年に「口中科」での免状下付を願い出た書類と、明治13年に「歯科専門」で試験に合格したときの書類や成績表が東京都公文書館に残っています。一連の歴史資料によれば、一般の内外科は8科目16問の出題で、歯科専門は5科目5問でしたが、この年40歳になる道盛には4科目4問の試験が行われました。
 伊澤道盛は、森鴎外の史伝小説『伊澤蘭軒』で名高い江戸時代の考証医家、伊澤蘭軒の本家にあたり、江戸在府の黒田藩の口中医として麻布鳥井坂に住んでいました。出張診療所を出した「津田縄売り捌き処」の「親友津田仙君」とは農学者・教育者、「明治キリスト教界の三傑」として有名な津田仙で、明治4年(1871年)に岩倉使節団に随行して渡米した当時6歳の少女、津田梅子の父親です。伊澤道盛は津田仙の紹介で、10歳年下の小幡英之助から近代歯科医学を学んだと伝えられています。
 小幡英之助は「それまでの口中科の名称を嫌い歯科で出願した」と言われていますが、明治8年の広告では「口中療治」、高山紀斎は「歯医公告」、伊澤道盛だけが「歯科」を用いています。
 また、小幡英之助の広告文の中で出ている「隈川宗悦」は当時の著名な開業医で、有志共立病院(現在の東京慈恵会医科大学附属病院)の創立メンバーの一人でした。
 因みに、小幡英之助、伊澤道盛、高山紀斎が発起人となって設立された「歯科医会」は明治36年(1903年)に大日本歯科医会(現在の日本歯科医師会)へと発展し、その初代会長には高山紀斎が就任しました。

文献
1)日本歯科医師会:歯科医事衛生史前巻.1940年.
2)榊原悠紀田郎:歯記列伝.クインテッセンス出版.1995年.
3)樋口輝雄:小幡英之助の受験書類について.日本歯科医史学会々誌.2008年.

日本歯科大学新潟生命歯学部「医の博物館」 樋口輝雄

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