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明治時代の歯科医学史

明治16年の医師番付

 相撲番付に見立てた医師番付表「漢洋医対照番付」(図1)が、明治16年(1883年)に発行されました。右から左に「東京銘医大見立表大家一覧 官許西洋家 医鏡 前後御免 漢医 次第不同」と読みます。「西洋家」とは近代ヨーロッパ医学を学んだ医師で、「漢医」とは伝統的な東洋医学で治療をする漢方医です。

 右半分の「西洋家」は様々な文献で紹介されていますが、日本の「漢元復興運動」を研究した深川晨堂は『漢洋医学闘争史−政治闘争篇』(昭和9年)で、「…かつては下宿の四畳半うら、焼き芋のヘタを噛んで露命をつないだ寒柯の書生は、舞台が変って堂々押し出しの利く国手高官となって登場した。見よ!大鳥圭介、長与専斎、田代基徳、高松凌雲…」と称え、「漢医」については、「この一党は痩せても枯れても、西洋に白旗を掲げず、我道唯我独尊で、孤守したところに、保守派最後の粘着と、玉砕の高潔を見出すことができる」と述べています。

 番付右上の「外科」本郷・佐藤進は順天堂大学、「内外」京橋・高木兼寛は東京慈恵会医科大学、「病理」本郷・長谷川泰は日本医科大学の創始者です。

 図2は「西洋家」の下部分の拡大です。松本順(良順)は陸軍軍医総監で、司馬遼太郎氏の小説『胡蝶の夢』の主人公です。戸塚文海は海軍軍医総監で、養父の戸塚静海は幕末には洋学三大家の一人として名高く、吉村昭氏の『日本医家伝』で詳しく紹介されています。

 前置きが長くなりましたが、その上の段に、「骨科」名倉和之、「歯科」小幡英之助、「癩病」後藤昌文、「気鬱」加藤照業、「種痘」大野松斎、と5人の名が載っています。この5人は医師の中でも整形外科、歯科、ハンセン病、精神病、種痘の大家と目された人達です。歯科医師・小幡の盛名はまさに「海内に轟いた」ことでしょう。

 小幡英之助は歯科専門で医術開業試験(旧試験)を東京医学校(現・東京大学医学部)で受験して合格し、明治8年(1875年)10月2日付で第4号の内務省免状(歯科医術開業の免許)を授与され、我が国最初の歯科専門医となった人物です(「雑学いろいろ」内「歯科医学の進歩と歴史」参照)。明治17年(1884年)に「医師免許規則」が施行され、医籍の統一が行われ医師が開業するには免許の取得が必須になりました。明治8年から16年までは経過的に、内務省から免状(免許)を授与された医師と、地方庁から暫定的に仮免状を下付(交付)された漢方医を主とする「従来開業医師」がいました。内務省から免状を授与されたのは、旧試験合格者のべ3330名、高木兼寛のように外国医学校卒業者3名、森林太郎(鴎外)始め東京大学医学部卒業者366人、また、長谷川泰など病院や陸海軍への奉職履歴による者約1600人、計約5300人でした。因みに、この旧試験では、歯科医師として歯科専門29名、口中科専門2名、合計31名が合格し内務省から免状を下付されました。

 ところで、図1の大見立表の中には、小幡を含め、3人の歯科医師の名があります。一人目は、右の「西洋家」の大見立表の2段目右8番目「横浜弁天町・安藤二蔵」です。安藤は、ハワイ総領事を務め、禁酒運動家としても名高い安藤太郎の実弟です。横浜で日本で初めて歯科を開業するなど、日本の近代歯科医学の発展に貢献した米国出身の歯科医師・イーストレーキの門下生だった安藤二蔵は、明治15年(1882年)に東京府で実施された旧試験に合格し、第3375号の内務省免状を下付されています。

 二人目は、左の「漢医」欄の左端、張出欄「外神田・渡邊良斎」で、父の皐斎は「法印」(僧侶の位階の最上位)良斎は「法眼」の位を授けられた入れ歯の名人です。新免状への書き換えの際には、渡邊の強い要望もあり、東京府ではただ一人、従来開業の口中医として医籍に登録されました。

文献
1)深川晨堂:復刻版漢洋医学闘争史 政治闘争篇.医聖社,1981年.(原本は1934年刊)
2)今田見信:わが国の歯学史資料図鑑(100)「歯科医の入っている銘医・大家の番付」.歯界展望,1971年10月号.
3)樋口輝雄:東京府における明治12年から16年までの医術開業試験と歯科専門での受験者.日本歯科医史学会々誌,1996年.

日本歯科大学新潟生命歯学部「医の博物館」 樋口輝雄

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